かっこよくしまらないけど仕方がない。対レイシスト行動について。
write by 皆川 洋美
- 「ヘイト・スピーチ」をご存知ですか?
お恥ずかしながら,私は,「ヘイト・スピーチ」は「放置しておくこと」が最も有益な対処手段だと思っていて,
教育活動や啓蒙活動で市民意識を変えていくことしかないのかな,差別する人はどうあっても差別するんだろうな,という考えでいました。
「カウンター活動」について「そういう活動がある」ということは頭の中で知識としてあったものの,
昨年(平成26年)11月に札幌反差別パネル展を見に行く頃まで,札幌でカウンター活動があることも分かっていなかったというのが正直なところです。
また,カウンター活動をすることについても,動画サイトで一定の情報は得ておりましたが,
自分が具体的にカウンター活動をするということについて,抵抗感がありました。
自分が学び,最も重要だと考えてきたはずの「表現の自由」との関係で,どのように整理をつけたらいいのか分からなかった。
自分の中からわき起こる感情,正義感とか義憤とかそんなかっこいい表現では足りない,
言うなれば本能に基づいて「ちょっと待てや!」と言いたくなる感情。
感情的に動いてはいけないという判断がどこかにあって,自分のなかでセーブしようとしていたのかな,と思います。
それでも,偶然にも当事者の話を聞き,
「嫌なものは嫌だ。」「悪いものは悪い。」と表だって言うことができる職業であることに魅力を感じた,
そんな自分の初心に立ち返ることができて,対レイシスト行動に関わらない理由はないと思うようになり,筋肉痛に苦しんでいるというわけです。
(すげー説明ぶっとばしたな)
- というわけで思いつくまま対レイシスト行動についての記事を書きたいと思います。
対レイシスト行動といっても,いろんなレベルがあります。
ヘイト・スピーチとは何か (岩波新書)/岩波書店
- ¥842
- Amazon.co.jp
こういった書籍の出版も,対レイシスト行動のひとつですし, - 集会やデモ,カウンター活動のような外に出た活動の際には弁護士が見守りに行くことにも意味があります。
- うちの兄弁なんぞはカウンター本人になっています。
- そしてわたしも本人として加わりたくて仕方がなかったですが
- ぐっと堪えて見守りに徹する(ように努める)のでありました。
それを一番大きくやっているのがC.R.A.C.というみなさんです。
Counter-Racist Action Collective でC.R.A.C.。
よくこういう略称考えられるなぁとしみじみ。
かっこよい。
C.R.A.C.のサイトはこちら
「レイシストをしばき隊(レイシストをしばきたい)」という団体のほか,プラカ隊,署名隊その他が渾然一体となったもので,
現在は「反レイシズム・アクションをさまざまなレベルで実行するためのプラットフォームです」とのこと。
たしかにサイトを見ていると,単にカウンター活動をするだけではない,視野の広い活動が行われていて,「かなわねーよこれ」と思うばかりです。
C.R.A.C.も支部?というか,地域ごとに活動があって,対レイシスト行動集団関西(C.R.A.C. WEST)とか北海道だとNORTHとか,各地域での活動をしています。
そして,公になにがしかのことがあった時に異議を申し出る等の方法を執ることも,対レイシスト行動です。
ずいぶんと記憶の彼方になってしまっているかもしれませんが,
札幌でアイヌ民族(アイヌ)に対する中傷発言をインターネット上で行った議員がいましたが,
この人に対する辞職勧告活動があったのも対レイシスト行動ですよね。
「アイヌ民族なんて,いまはもういない」という発言は,人が人として存在するということすら,その民族的属性ごと否定しています。それだけにとどまらずに,「利権を行使しまくっている」とアイヌ民族であれば不正を働くものであると解釈できるような文章で中傷しています。そして、それが発言者の中にある偏見から生み出されたものであるにもかかわらず,その責任を「納税者」に押し付けています。このような卑劣な文章を,ツイッターのような不特定多数が読むことのできる,いわば「公共の場所」で書くことは決して許されることではありません。(インターネット署名サイトchangeの呼びかけ文より)
ちなみに,日本ハムファイターズの新千歳空港広告の撤去は,
当事者団体である北海道アイヌ協会の申し入れによるものだそうです。
(あ,これは日本ハムファイターズがレイシストだという主張ではありませんので悪しからず。
ただ,無神経さが問題というか歴史認識の違いだとすればもしかしたら?)
日本ハム「開拓者の大地」空港広告を撤去へ [2015年11月9日13時34分]
アイヌ協会のことについて,きちんと情報整理をできているわけではありませんが,
差別されている当事者からの申し入れはすごいな,と思います。
もちろん,当事者が声をあげることはとても重要なことで,
私が「放置しておく」から「対抗する」ことにしたのも,当事者の人の話を聞いてからです。
ヘイト・スピーチに関する学習会に行った時に,偶然そこに当事者となる人がいました。
その人の話から,カウンター活動は,ヘイト・スピーチをする側に対する圧力活動であるというだけではなく,
カウンター活動をする人がいるということそれ自体が,当事者に対する意思表示になるのだということを知りました。
「自分たちに対する悪意ある日本人ばかりじゃないと分かってホッとする。」
カウンター活動を見ることで,当事者はそう思うのだそうです。
私は,「レイシストは所詮レイシストなんだから気にすることないのに。」「そんな意思表示しなくても当事者の人も分かってるでしょう!」と思っていました。
でも,違ったんですよね。
意思表示されなかったら,それはないのと同じ。
言わないのは,同じことを思ってるのだと感じられてしまうのですね。
そして,「
こうしてくれたら救われる」と言うことじたいがアウティングになってしまう。
当事者が声をあげることができない,LGBT問題しかり,民族問題しかり。
勇気を出して,あるいは勇気とかなんとかそういうのではなく感情が高ぶったがために,
その人のアウティングが起こってしまったのかもしれませんが,
その話を聞いた以上,私はもう動かざるを得ない。
自分が持っているどんな要素に当てはめてみても,うまく喩えられないのが歯がゆいのですが,
自分が何かをすることで,そこまで人の心が救われるのなら,
やるのが弁護士ってやつなんじゃないのかな,と思うわけです。
あれ。なんかうまいことかっこよくしまらない。
そこはまたひとつご愛敬ということで。